愛すべき日本の神様たち

みあです。幼い頃から親しんだ氏神様へ、今も折に触れておまいりしています。すでに引っ越しもして長いのに、いまだにかつての住まいの近くの神社に心惹かれるのです。

玉依媛命

下鴨神社のことで記事を書いたのを機に、玉依媛命(たまよりひめのみこと)について本を読み返してみました。↓コレ。

戸部民夫 『「日本の神様」がよくわかる本』PHP文庫

神道関連の著書も多数ある作家さんの著作で、八百万の神様について常に頭がこんがらがっている私のガイドブックのひとつ。多くの神様について書かれている入門書のような位置づけなので、あらためて神様の系譜がわかったり、おまつりされている神社が紹介されていたり、いつもこんがらがってしまう私には、助かります(*´▽`*) 異なる宗教を信仰する友人たちがいることもあり、他の宗教のこともある程度理解したくて、旧約聖書や新約聖書、ギリシャの神々の本のほか、仏像、仏教関連や日本の神話に関する本なども複数持っています。・・・辞書みたいに使うことが多いですが。

話を戻して、『「日本の神様」がよくわかる本』の中で、京都下鴨神社の主祭神の一柱、玉依媛命については、このように紹介されています。

ー鴨川で水遊びをしていると、上流から丹塗矢(にぬりや)が流れてきた。その矢は、火雷神(ほのいかづちのかみ)の化身で、拾って帰り寝室に飾っておくと、やがて身籠り、生まれた男の子が上賀茂神社の祭神賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)だった。この玉依媛命は、もともと神霊が憑依する神聖な女性(巫女)で、その巫女が神婚によって神の子を産んだと考えられているー。

丹塗矢・・・(゜-゜)

まぁ、神婚というのはキリスト世界にもあるようですが、日本の神様って、おおらかなイメージです。

そういえば、男根をご神体として祀る神社もあるくらいですから、多産や豊穣への祈りもなんとも直接的すぎてびっくりします。が、なんともおおらか。そのような神社は祭りの儀式も、おおらかで面白い。

日本は無宗教の人が多い?(。´・ω・)? ソンナワケナイ

日本人は、無宗教の人が多いーそんなふうに言われるのを耳にします。「私は宗教なんて信じてないし。」「〇〇教を信仰していると言えるものはない。」普段そんなふうに思っている人も少なからずいるように感じます。絶対神がある一神教を信仰する人々とは違って、あまたの神々のお名前だけでも覚えきれないほどあるため、ちゃんと覚えてもいない、家に仏壇があってもお寺に行くこともない、そんな私は宗教心が薄い・・そのように感じる人も多いのかもしれない。

でも、私は日本人が無宗教の人が多いなどとは思わない。

むしろ、世界広しといえども、日本人ほど祈りに近い人々はそう多くないと思うのです。なぜか。

日本人の考え方、習慣、ふるまい、発する言葉、挨拶、文化のひとつひとつには、平和・安寧・長寿・繁栄などの祈りが込められたものが多いから。否、多い、というより、それが日本の文化そのものであると思うのです。

「宗教」というと、はっきりとした教義を持ち、排他的になるほどの強い信仰心を持ち、他の宗教だけではなく場合によっては文化、民族すら排除することがあるものも見受けられます。しかし、そのような宗教観とは決定的に違うと感じるのは、日本の神々は自然と一体化していて、そこへの畏怖が大元にあるのでないか、ということ。そこには、他を排除するのではなく、そこにあるものをそのまま受け入れて、共存することを旨とするという理念があるように思うのです。「八百万の神々」とは、まさにその包摂性とか懐の深さを表すような気がします。

この国は、昔から大災害が多く、それで苦しむことがあった反面、その災害によって土地が肥沃になり、水が豊富にあり、豊かな自然の恵みにすべての生き物が生かされてきた。それを、太古の昔から日本に住む人々は恐れながらも大いなる親しみを持っていたんじゃないか。そんなふうに考えます。だから、太陽や山、海、川、木、石、風、土、地下水、動物たちにまで神の存在を見る。土地の安寧を祈り、雨の恵みを喜び、豊かな実りを祝い、子孫繁栄を願い、長寿を寿ぐ。四季折々のお祭りや、節句の祝い、挨拶の言葉にもそんな心持ちが宿り、最も身近には毎食の「いただきます」もその延長線上にある。

だから、他の、特に一神教の「宗教観」とは、考え方が根本的に違っているように思うのです。そうだとすれば、一神教の人々から見れば「無宗教」というように見えるのはおかしくないけれど、我々まで彼らの宗教観に照らして、そうだと思い込む必要は全くないのでは?

あまたの神々のお名前や系譜を覚えていなかったとしても、山に入れば澱みのない澄んだ空気感にその偉大さを感じてそこに祀られる山の神を拝み、氾濫する川を見て知る水の脅威を身をもって感じてそれを鎮める神社の存在を知る。私たちはそんな国に育ったのです。

そこに、仏教やヒンドゥーなど、後から加わったものの影響を受けている。仏教は日本に入ってきてからいろいろありましたが社会に根付きました。インドのヒンドゥーの神々の影響もあるけれど、そういう他国から入ってきた宗教の影響以前に、大いなる自然に対する崇敬、畏怖の念、感謝、そして、先祖に対する感謝と供養が、私たちの土台になっている。

この国の宗教観にはふたつの大きな柱があるように思います。

ひとつは、自然への畏敬の念から生じ、そこに神々を見て感謝と祈りを日常の行動規範とする部分(それと自覚していようがいまいが、日常に根付いているもの)。そして、もうひとつが、先祖への感謝と供養。

葬儀の際に、神道式のほか仏式を選択されるおうちが多いように見受けられますが、それは本来の仏教の教義とはまた別でしょう。葬儀の形式として仏教の形式をとっているが、それは先祖への感謝と供養が主眼であって、仏教に帰依していることとは必ずしもイコールではない。帰依するとは、自らの判断や生き方そのものを委ねること。しかしそこまではいかずとも、日々の暮らしの中で仏教の教義・思想を心の支えにする、仏を自ら歩む道の先に見る。先祖に感謝し、手厚く供養をし、自らの心の安寧を得たい、そういう人々の願いに、仏教が寄り添ったということ。言語化してみると、そういうことなのではないか。もちろん、江戸時代の宗門人別改めの影響は大きいと思います。が、それは時代を超えて現代の私たちの日常に根差している。

また、アイヌや琉球という現代日本の一部ではあるけれど、ひとつの民族、ひとつの国を形作ってきた人々の宗教観はまた異なっている。この国は数千という島々から成り、島嶼部には特に独自の儀式が残っていたりする。けれど、自然への畏怖や先祖への感謝と供養には相通じるものがあるように思うのです。

ある意味、日本人の宗教観の基礎は、他国で言うところの地域の先住民に見られる自然崇拝に近い部分があるのではないか。日本の場合、太古の昔から現代社会にまでその考え方の根本が残り、私たちの現代の民族性を形作っているのではないか。そんなことを考えます。

現代の日本社会に生きていれば、忘れかけていることもあるのかもしれないけれど、心の奥底で私たち人間は大いなる自然には叶わないという「謙虚さ」がずっとある。日本人が外国とは異なる文化で他国から好ましい視線を向けられているとき、私たち自身がまるで意識することがなくとも、そのような心持ちを感じとってもらえているのかもしれない。ある種の自信の無さからくるものなのか、「日本人のココがすごい」などと、民放各局が特集する企画バラエティのように自画自賛したり、あえて人々に吹聴する必要はない。他方で、現代テクノロジーの発展に伴うある種の傲慢さがこの社会に漂うのも感じている。社会がこれまで以上の速さで変化していく現代だからこそ、昔から私たちの先祖も持っていた自然に対する畏敬の念から生じる謙虚さを、いつも忘れずにいたいな、と思うのです。

これは、私たちが誇るべき私たちの宗教信仰なのではないでしょうか。

愛すべき日本の神様たち

日本の八百万の神様って、なんだかとても人間くさいようなところがある。ワイワイ楽しく踊ってみたり、涙を流してみたり、子どもを産んだり、喧嘩したり、恋をしたり。怒ったり、ひねくれたり、暴れてみたり。目を洗ったり、うんちをしたり、結婚したり。愛すべき神様たちの生き生きとした姿。

これって、私たちの先祖が、あらゆるところに神様を見て、その神々に心を寄せ、恐れながらも親しみを感じていたから、なんじゃないのかなぁ。

「古事記」「日本書紀」「風土記」などの古い書物にも見られるそんな神様たちの生き生きとした姿は、とても魅力的。神様たちが生き生きとしている、っていう表現自体が、きっと一神教の宗教観にはないのでしょうから、この感覚は独特なんでしょうね。

私たち日本人が、もっと自分たちの身近にあるこういう感覚を自覚してみれば、きっと「私は無宗教」なんて思わなくなるんじゃないかなぁ、と思うので、少し寂しい気がします。

願いは

ところで。ことほどかように宗教観とは切り離せないと感じている日本の文化を愛し、情熱を持っていながらも、私はどこか一部に常に冷静さを保っておくようにしたい。

宗教は、古今東西を問わず、支配・経済・抑圧・戦争などと切り離せないほど複雑に絡み合ってきました。私は、宗教信仰には、それがどんな宗教信仰であっても、常に一歩引いた目線をどこかに持っていたい。それは、目に入るあらゆるところにいらっしゃる愛すべき日本の神様たちに心惹かれつつ、月に一度は複数のお墓参りをし、またお経をひとつならず空で言える程度には親しんできた仏教宗派も、全て自らを形づくっている一部であることを自覚しながらも、いつも自分に「生き方」を問いかけ続け、他者を支配せず、他者に支配されないことを、自らに絶対的に約束したいという願いがあるからです。

現代日本は、他国からの旅行者も移民も急激に増えています。国は移民を正面から認めていませんが、実態は受け入れ人数を短期間で一気に増加させています。他の国、人種、文化、宗教観が狭いエリアに集えば、どうしても軋轢が出る。それは、世界の現状を見ても、国内の状況を見ても明らかです。

大いなる自然に対する謙虚さと、静かな祈りを持つこの国が、悲しい争いと排除にまみれることがないよう、切に願っています。