みあです。本をよく読みます。
そのなかでも、時代小説を読んでいると、夫が寝ついている女性が家族を養うために仕立ての仕事をする、とか、大店の娘さんがお針のお稽古に行く、とかそういう設定がよく見られます。
でも、具体的にどういうものをどこから引き受けてくるのか、とか、縫物をするときにどんなところを見ているのか、まで踏み込んだ描写ってあんまりない。でも、ひとつ思い出したものがあります。
宮部みゆきさんの「幻色江戸ごよみ」の中の「小袖の手」。
江戸の町に住むひとりのおっかさんが、娘に語りかける形式で話が進みます。小袖を見繕ってくるように言ってはじめてひとりで出してやった娘が良いものを安く手に入れたと大得意で買って帰ってきた小袖。それを前にして、おっかさんは娘に、おっかさんにそれを見せておくれ、と言います。少したって、娘にこんな話をするのです。
付喪神というものを知っているか。おっかさんが、あんたと一緒に古着屋に行くたびに、横から口出ししていたのは銭金惜しんでのことじゃない。前の持ち主の魂が残っているものを金で買うわけにはいかないから。実は不思議な話があるんだよ。おっかさんが子どもの頃、長屋の隣に住んでいた小間物屋のおじいさんが、女物の小袖を買って帰ってきた。小間物屋だから、古着の女物の小袖を安く手に入れて、解いて作り替えて商売モノにするというわけ。でも、その人が小袖を買って帰ってきてからなんだか様子がおかしくなった。近所の人はその小袖から手が伸びて、おいでおいでしていた、などというようになった。それから商売に出るのに足元がふらつくようになって日に日に痩せこけていったんだよ。そして一人暮らしのその人が、夜に笑い声を立てるようになった。そして、ある日、その人は死んでしまった。そのとき小袖はなくなっていたんだよ。そのあと、差配さんがこんなことを言った。「あの小袖は何かの理由で横死した女の魂がこもった小袖だったんだろう。古着にはよくあることだ。死人の装束をはいで、売りにだされたものだったんだろう。」
おっかさんがなんでそんな話をしたのか。あんたが買ってきた品物のわりに安すぎる小袖は、身幅が少し狭すぎるように思ったんだよ。で、その小袖を解いて、おかしなところがないか見てみたんだ。そうしたら、その小袖は、脇のところを詰めて縫い直してあった。それをほどいてみたら・・傷がある。これは刃傷のあとかしら?泣かなくてもいいよ、いじわる言ったんじゃないんだから。おっかさんがいいように言って返してきてあげるから。
こんなお話でした。ゾッ(ー_ー)!!
いや、思い出したのは、そのゾッとする内容のことではなく。
古着屋さんから古着を手に入れたりしたら、解いて直すことは当たり前だった、という描写のこと。古着を解いて縫い直す、とか、古着を買ってきたら焼けたり切られたりした部分を変に詰めている部分があったりする、というような、シーンが目に浮かぶようにリアルに描写されているものってあんまりないように思うのです。
そして、他にもうひとつ。
平岩弓枝さんの「御宿かわせみ」シリーズ。
江戸の大川端にある小さな旅籠のおかみで元同心の娘のおるいさんと、与力の弟でありおるいさんの恋人でのちに夫となる神林東吾。旅籠かわせみを中心に主人公たちが周りの人たちと繰り広げる人情捕り物帳。
宿のお客の赤ん坊や、捕り物関係で突然かわせみで預かることになってしまった赤ん坊のために、浴衣を解いて襁褓を縫う、だとか
岡っ引きの長介親分がお上からお褒めいただいて皆からわいわいお祝いされているときに、そっと親分のおかみさん用にと、おるいさんと義妹がそれぞれ夫に相談して、反物を見立てて、新しい着物と帯を自分たちで仕立てて贈り物にする、だとか
そんなシーンが見られます。
江戸の街の庶民は盥でじゃぶじゃぶ洗える綿や麻の古着を手に入れて自分で直して着るのでも、「新しいもの」として心晴れやかになるものだった。あるいは、反物から買って本当に新品の着物や帯を仕立てるのはとても贅沢なことだった。ということ。庶民はそもそも何枚も着物を持っていたりしないでしょうし、お針ができなければ、自分の着るものすらどうにもならない。庶民にとって「仕立物がある」というのは呉服屋などからまわしてもらう仕事、そして直しなどはやもめ暮らしの人や朝から晩まで客商売しているような近所から預かってくるなどということだったのかな。おるいさんが蕎麦屋をやっている長介親分のおかみさん用に見立てた反物も、呉服屋ではなくきっと太物屋のものだろう、などと想像します。
そして。単衣を袷にする、綿を入れる、春になって綿を抜く・・などということも、季節ごとに自分でしなければならない。現代の私たちの衣替えどころの騒ぎではありません(‘◇’)ゞ
身分によって着ているものは違うので、その仕立てや手入れ方法も違いますし、大きな商家やある程度以上の扶持をもらっているお武家では、庶民と違って絹物があって、洗い張りも庭でしていたのでしょうね。それはお女中衆の仕事だったのか、それとも母や嫁、娘の立場で自分でしていたのか。お針は必須で身につけていてもやるべきなのかどうか、それとも使用人にまかせるべきなのかは、それも身分、家によって違っていたでしょうね。
たとえば、特に裕福というわけではないけれど、祖父母や親の世代の絹物の着物がたくさんあります・・でも自分で着られません・・成人式の着物はレンタル品を着付けしてもらいました・・洗い張り?自分でできません、道具もありません、というかその言葉を知りません・・お針?できないです・・綿ものは夏祭りで着た浴衣だけです・・ウール?麻?普段着物なんて着ないです・・というようなことがあるここ数十年がとても特殊な時代なんでしょう(^。^)
身分によって着られるものが決められるなんてこともなく、絹物なんて贅沢品が着るわけでもないのに何枚も家にあるおうちも多い今の日本は、当時世界でも屈指の大都市だった江戸の街があったような時代と比べても夢のように豊かな時代だなと思うのです。・・たとえ、高度成長期とは比べるべくもなく何十年も全くお給料があがらなくて、さらにコロナ禍で食いつめそうになっているとしても、箪笥の中にはお母さんが若き日に仕立ててもらった着物がどっさりある・・なんてこともあるのですから。
・・というように、昔の着物と人々の暮らしに思いをはせてみたり、振り返って現代の特殊性にちぐはぐな印象を持ったりすることがあります。
時代小説を読むときには、そんなふうに着物に注目してみても面白いな、と思います。でも、もっと着物の描写や、お針のシーンの描写が細かいものってないかしら?それも、時代背景によって地域によってさまざまに変わってきた着物の考証もある程度しっかりしていて、なおかつ興味が持てるような小説・・そんなふうにぼんやり考えていたら。ありました。それもとても面白い(^。^) でも、それはまた別の記事にて。
「御宿かわせみ」シリーズが好きなごきげん子猫